誕生日なので永平寺で参籠してきて得られたこと

永平寺で参籠してきた。誕生日にみんなでパーティわいわい、みたいなのはもういいかなーと年々ストイックにストイックになってますが、今年はついにバースデー宿坊へ。

しかも、禅修行のトップオブトップの総本山、永平寺!!常時100人以上の僧侶が修行のために全国から集まっている永平寺!!!

相変わらずいろいろと決めるのが遅く、10日前という予約受付締め切りギリギリで連絡。さすがに三連休の前日だし予約無理かなぁー。無理だったらどこかで紅葉でも見ながら美味しいもの食べてのんびりしようかなー。いやー、予約空いてないならしょうがないよね、修行する気は満々なんだけどねーっと、

ダメ元で電話かけた。

「あー祝日前ですねー、その日は難しいかなぁー、ちょっとお待ち下さいね。あ、いや、空いてますね!」

空いてたw

永平寺の宿坊はネット予約などなく、電話で連絡し、郵送で送られてくる申込書に必要事項記入して返送し、さらに確認の書類が送られてきて、それも返送しないといけない。

アナログ2段階認証!すでに試されている気がする。。

宿坊は想像してたよりはかなり快適で普通に「お宿」でした。板敷きの間に雑魚寝的な想像していてすみません。

参籠のメニューは、座禅、法話、お務め(みんなでお経を読む)など。私は早めに着いたので意識上げるために写経もやった。もちろん世界平和を願っておいた。

先に結論を書いておくと、今回の参籠で得たのは「俗世間に生きてる方がよっぽど修行になるわ」ということ。

ここからは、まったく禅も宗派も無知識な私の勝手な見解です。

まず、永平寺での修行は「生活自体が修行である」というものであり、その中で徹底的に我欲をとっぱらうことである(多分)。自己を整え己自身に対峙する精神修行。(この辺いろいろ調べても修行の目的が何なのかって明確に言語化されていない気がする)

俗世間の方がよっぽど修行になるのではないか説

特殊な環境下で本当に我欲を乗り越えることができるのか?

参籠中の法話の中で「美味しそうな料理の写真を見て得られないものを欲しいと思う感情や、何かに対する怒りの感情から離れれて心を安静に保つ」みたいなことをおっしゃっていましたが、そもそも修業中はテレビもネットもないからそういう誘惑はほとんどないはずだし、心を乱される環境からも隔離されている。

俗世では、ツイッター開けば肉や寿司の飯テロ写真、インスタ開けばBBQやBBQやBBQの写真。

こんなに誘惑が多い環境でそれに耐えている私たちもよっぽど精神修行させられているのではないか!

俗世はいろんな感情が渦巻いてる。その中で、自分を律して感情を常に平穏に保つことのどんなに大変なことか。本来その中でいろんな誘惑に打ち勝ち自分を成長させていかなければいけないのだ。

肉体の修行で精神は修行されるのか?

寒い冬も裸足で修行とか、座禅を110時間とか、修行=肉体的な辛さ、みたいな気がするんだけど、肉体の苦しみより精神の苦しみのほうが深刻だし、俗世間は精神的困難がとても多い。肉体的な修行を経て精神的な安定を手に入れるのが修行の目的だと思うんだけど、実際には精神的に困難なことに直面してそれを自力で乗り越えないと精神的タフネスは作られないし、心の安定も手に入らない。

確かにお寺の修行は肉体的に厳しいかもしれないけど、毎日満員電車で通勤1時間とかだって肉体的にも精神的にもかなりの修行でっせ。

(あとお寺では朝は4時起きなんだけど、夜21時くらいには寝るからこれもそんなにきつくない。朝4時まで飲んで翌日の役員MTGのために10時出勤のほうがよっぽどツラいw。)

現代の悩みはもっと複雑怪奇ではないのか?

欲を断ち切りましょうとか、死や老いや病からは逃げられない受け入れましょうみたいな、扱われているテーマが昔からの古典的な苦しみからの解脱しかない(気がする)けど、現代の苦しみってもっと複雑。

単純に「死を恐れる」という悩みから「死をどう選択するか」という悩みへ多様化してきている。

そういう悩みも修行によって消えるのだろうか。

社会に出ずに修行している若い僧が心配

今回、私のような外部の参籠参加者たちを案内してくれていたのは、若くてまだ永平寺の修行に入りたての修行僧の方だったんだけど、大学卒業して仏門に入って修行して修行を終えたら実家の寺に戻ってお坊さんとして務めるらしい。

それこそ、一度も社会に出たことのない教員みたいになんないのかなーという疑問というか勝手に心配してる。

やはり実際に乗り越えた困難や試練の数だけ人は成長し、その数が多ければ多いほど人間が磨かれ心の安定が手に入る。

私たちは修業僧のように僧堂に入らずとも、この俗世間でそれなりの修行をしてるのだから、たぶん、私もそのうち悟りを開く気がしてるw。